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2010/05/04
z017 清水山  観世音寺 天台宗 2008.8.6 参詣
818-0101 福岡県太宰府市観世音寺5-6-1 九州西国三十三観音霊場第三十三番結番所
『続日本紀』によると、観世音寺は天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したもので、斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと思われる。
『続日本紀』の和銅2年(709)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746)のこととされている。
しかし、『二中歴』には観世音寺創建は白鳳元年(661)のことであると記されており、観世音寺創建を7世紀中頃のこととする説もある。
創建時の観世音寺の瓦とされるものは、老司 I式と称され、藤原京の瓦よりも古く編年されている川原寺と同形式のものである。川原寺の創建は、7世紀中頃とみられるので、同型の瓦を持つ観世音寺の創建も7世紀中頃と考えられる。
また「本朝世紀」康治2年(1143)7月19日条には、観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来であると記されているので、これが百済から献上されたとすると、百済滅亡(663)以前の出来事となり、観世音寺創建は7世紀中頃のこととなる。
また698年の紀年銘のある京都・妙心寺の梵鐘と同一デザインの兄弟鐘が観世音寺に伝わることから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。
現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。
その後天平宝字5年(761)、鑑真によって当寺に戒壇院が設けられた。
これは、僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができることを意味した(奈良の戒壇院、観世音寺、下野薬師寺を天下の三戒壇と称する)。
平安時代以降の観世音寺は、たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失っている。
康平7年(1064)には火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。
康和4年(1102)には大風で金堂、南大門などが倒壊している。金堂はその後復旧したが、康治2年(1143)の火災で再度焼失している。
寛永7年(1630)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃寺同然の状況に追い込まれた。
翌寛永8年(1633)に金堂が、元禄元年(1688)には本堂(講堂)が、藩主黒田家によって復興され、どうにか古寺としての面目を保ってきた。
平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗寺院となっている。
大正2年(1913)から同4年にかけて、傷みの激しかった諸仏の修理が行われた。昭和34年(1959)には鉄筋コンクリートの宝蔵が完成。
宝蔵には像高5メートル前後の巨像3体(馬頭観音、不空羂索観音、十一面観音)をはじめ、金堂、本堂(講堂)に安置されていた諸仏が収蔵・公開されている。
(Wikipediaより要約)
境内(本堂や阿弥陀堂)は拝観無料であるが宝蔵は拝観料500円が必要。
なお、宝蔵には売店があり写真集や資料等購入できる。御朱印も宝蔵でいただける。
参道入口から 本堂正面 本堂 本堂2階部分に掲げられている寺号額 本堂1階部分に掲げられている山号額

本堂斜めから 阿弥陀堂 案内看板 鐘楼 宝蔵

パンフレット