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2010/05/23
Z017 菅原神社 2008.4.21 参詣
2008.7.31 再訪
802-0082 北九州市小倉北区古船場町1−6 北九州都市モノレール「旦過」駅下車徒歩2分
祭神:菅原道真公
創建:延喜3年(903) 例祭:4月24〜25日
菅原道真公は延喜元年(901)4月25日、大宰権帥として京都より大宰府へ左遷され、筑紫へ向われる途中、神嶽川のほとり、とある小島に一休みされ、風光明媚な企救の浦を賞でられた後を伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び、一祠を建立したのを創建とする。
ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地である為、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、殊に大友宗麒はこの小倉の地を一村一家残すことなく焼き払ったと伝う。しかし、「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、その度に再建された。
その後戦国の動乱もおさまり、慶長7年(1602)1月細川忠興が小倉城築城の砌り、一小祠となっていた「本社」を瀧本院と共に配祠し、城下民の信仰をすすめ、さらに寛永9年(1632)2月小笠原忠真が十五万石の藩主として入城後、夫人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二代藩主忠雄)の養育に学問の神・菅公の教訓を以って当たったことにより、忠真は慶安元年(1648)2月に社殿を修築し、神宝を納め、公式に城下民子女の「教育祈願所」と定め、次で寛文元年(1661)2月には拝殿を造築し、「威徳寺」の尊号と偏額を奉納し、この年9月25日には特に盛大な祭典を執行した。
幕末に至り、慶応2年(1866)8月1日の戦火で小倉で町共々焼失したことに加え、明治初年の「神佛分離の制」の混乱で、神苑の維持も困難となり、御神体は一時、仲津郡国分村(現在の京都郡国分寺)に遷座されたが、明治25年(1892)9月、当時の初代小倉市長吉沢直行・初代企救郡長津田維寧ほか十数名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子・信徒の手により旧社地に立派に再建され、さらに現社殿は昭和37年に再建された。(菅原神社ホームページより要約)
→菅原神社ホームページ
ちょうど訪問した時には授与所、社務所ともにお留守のようでしたので御朱印は断念。
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再訪時はちょうど宮司さんが外出から戻られた直後で、汗を流しながら対応して頂きました。
全景 拝殿正面から 拝殿にかけられた社号額 拝殿右手の授与所の上に掲げられた由緒書き 神牛像

神楽殿 社務所側から 本殿 交通安全ステッカー